Monday, September 11, 2006


ここは僕のお気に入りの場所にゃ。言うに事欠いて、邪魔だはにゃいだろう、邪魔だは。

(Robot Star II Vollautomat + Xenar 40mm f1.9)

2 Comments:

Blogger ゴンギツネ said...

セピア色のチャイは目が輝いている

さて暑い夏が過て、あたりはスズムシの声だけだ。その嵐の中に沈ながら少しだけ考えてみた。
ノビタ教授のタウシグ論のことだが、そのタウシグというのを知らない。何も読んだことがないので、ほとんど意見を言うことはできない。
それなら止せばいいのに、やはりちょっとだけ、言いたいというのが悪い癖だ。
だからゴンギツネは人に嫌われる。でもこれがなくなったら、もうそれはゴンギツネではなくなる。人に嫌われる悪口を言うから、いくらか世の中に存在理由がある。そう思ってこのグダグダ文を書いてみる。

「秘密にしようね」と言ったことの方が、公然と大声で言うより、はるかに早く人々の中に伝わっていく。それはテクニックであるかもしれないし、また言ってしまえば気が休まるということであるかもしれない。

あるときこんなことがあった。
私が高校生のころだ。1950年の8月だから、朝鮮戦争が始まって2カ月もたっていなかった。
前の晩、友達から
「なんだか小倉で黒人兵の暴動が起きたそうだ。朝鮮戦争の最前列で戦って殺されるのはみな黒人だ。白人兵は後ろからやってくる、そう言って彼らが暴動を起こしたそうだ。祇園太鼓の音を聞きながら、戦争に行きたくない、早く国に帰りたい。黒人兵たちはそう言ったそうだ」

ゴンギツネは、明くる日、学校に行くと廊下を歩いていた一人の友達にその話を告げた。
「誰にも言うなよ、昨日こんなことがあったそうだ」

さて昼過ぎだった。職員室前の広い廊下を歩いていると、親しい友達が
「ゴンちゃんよ。こんなこと知ってるか。誰にも言ちゃダメだよ」といった。
それが小倉の黒人暴動の話である。
「その話、だれから聞いたんだ」とゴンは友達に聞いた
友達は
「なんだ、お前はこんなことも知らないのか、それでよく帝国主義戦争反対ができるな」といわれた。

朝、学校で一人に言ったことが、昼過ぎには、もう全校生に広がっていた。
ゴンはびっくりした。
デマゴギーとかいうのではない。必要なことは、またたく間に広がってゆく。
種子島に鉄砲が伝わったが、またたくまに紀州の根来衆に伝わった。
ザビエルが鹿児島から山口に来て、京都に行ってまた山口に戻ってきた頃には、もう山口の毛利藩の隣の津和野藩に鉄砲が輸入されていた。

秘密にしようね、と言ったことは、何かしら急速なに広がっていく。
秘密と公然というのは一つの事柄の両側面であって、片っ方だけでは成り立つものではない。

ノビタ教授はこんなことを考えているのだろうか。

1970年代の初め、ある大学の先生から
「中国革命というのは魯迅の阿Qに出てくるあのことですかね」と聞かれた。
阿Qは、革命が起きた、革命が来たといって人々が怯えるので革命は恐ろしいものだと思う。
あるとき隣の町で革命人を見たという。行ってその革命の先頭に立って村に入ってきた。
人々はびっくりした。あのバカな阿Qが革命だってさ。人々は阿Qを尊敬した。
ところが軍閥たちが戦っていたのだから、またたく間に今日の革命が明日の反逆になる。阿Qは処刑される。

物事の認識がはっきりしないときには、政治犯は、極端に言えば、同じものであってどちらのものも真実とはほど遠い。
こういうことは、しばしばありうるし、真実が現れると、それまでの両面はいずれもが否定されて、新しい認識が肯定される。

まだそんなことはどうでもいい。問題はそのように革命をとらえていたこの女性が、実は中原中也の研究者であったから、ゴンはそのほうにより驚いた。
私は中也の「山羊の歌」というものが、このような時代感で果たして理解できるのかどうか非常に疑った。

他人を客観的に眺めることで、中也の時代というものが、この女性とは全く違う観点のものであることが、私には少しずつ理解されるようになった。ありがたい事だった。

さて同じころだったが、木下順二が「ドラマとは対立である」述べた。
私はこれに強く共感した。

現実にあるものが、また事実がどのように存在しても、それは「ドラマ」にはならないと思う。
現実の対立が、ある「フィクション」によって、つまり虚構によって拡張され、より高い次元で再構築され認識されて「事実」は「真実」となる
このようなもののみが、深い感動と呼ばれる。
ノビタ教授のこの論文を読みながら、私は若い日の、そのようなことを連想していた。

精霊もお化けも、それが無いものだと言い切るわけにはいかない。
かといって、それを出して見せてごらんといわれても、全く困ってしまう。
ただ人間が目の前に理解されること以上に、より本質的な、人間のより根本的な存在というものは、やはり私はあると思う。
それが、現実の物質から離れるかといわれれば、それはそうでないともいわねばならない。

だから、この現実的な物質的世界がすべてかといわれて、そうだ、それが根本であるというような即物的唯物論は、全くその時から観念論になると思う。恐ろしい事だが宗教のような立場と、極端に単純化された唯物論とは実は同じようなものだ。
つまりそう「信じている」というだけのもので、それ以上の何物もないからである。

人間の認識は、このように単純であったり、機械的ではったりすることはできない。
存在の無限性と認識の有限性、この循環運動は人間が存在する限り継続していくものだと思う。
ノビタ教授はここのところにひっかかっているのだと思った。

今までの論証の結論では、こうなるのだが、そうすると今までの認識と全く違う、逆の結果になってしまうのだが、そういう思いがするときがしばしばある。

いや、逆に説明する方が正しいのではないだろうか。
「あ、そうだ。こちらの方が真実なのだ」
同じ現実から出発したとしても、全く対立する二つの結論に出くわす場合がある。
その、「そうだ」と思う時、脳の細胞が分裂して人間が賢くなる。

<逆説や対義結合は、ときに通念を完全にひっくり返えした新たな洞察に導く協力な武器となる。しかしそれに耽りすぎると足元をすくわれる。
私もレトリックの多用で恥をかかないように、ますます心してかかりたいと思う。>
―――ノビタ教授の言うとおりだ。―――

まあゴンはそんなことを考えているのだ。
ロクデモない考えだか、決してノビタ教授に伝えないように、セピアのチャイの胸の中にだけに、仕舞っておいてくれたまえ。

ところでノビタ教授の肩の痛みは、少しは良くなったのかな。
チャイだけじゃない。ゴンも心配している。

1:43 PM  
Blogger Chai said...

おっちゃんは今、アフリカで、特定の誰かが「妖術使い」に仕立て上げられて、リンチされたり追放されたりする現象を調べているそうにゃ。噂やフィクションと現実の関係がどうのこうのと言ってるけど、おっちゃんにどこまでわかってるのか怪しいもんだにゃ。

12:22 AM  

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